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佐倉市立美術館「さびしさと向きあって」展-2

最初に「さびしさ、、、展」-1と書いたので2を書くために自分のメモを
探したが見つからない。、、、で、ゴミ箱をあさったら出てきた。
よくこういうことがあるので自分の机の下にあるゴミは、事務所の
掃除の時も「あ、まだ捨てないで!」と言ってある(何の為のゴミ箱か
と思うけれど)。それが役に立った。

-2で書こうと思ったのは12月9日にあった、東京芸術大学の布施英利氏による
記念講演会のことだ。演題は「芸術は『痛み』に何ができるのか」だった。
正直私はこの講演に全く期待をしていなかった。
絵がみたいのと途中のドライブを楽しみたいだけだった。

それが、講師が演壇にそそくさと上がってきた時、何かが起こった。
細くかよわげに見えるその人はおかっぱ頭というかカッパ頭、または
坊ちゃん刈りというのだろうか、前髪がまゆの下で一文字にカット
されている。

そして実に、講演の内容にはもっともっと聞いていたい!と思うほど惹きつけ
られた。

藤原新也の風景論から入ってレオナルド・ダ・ヴィンチの解剖図や
モナ・リザの笑みについて、
自分が死体の朽ちていくさまを観察した腐敗の写真記録とか、
それを具現化した絵画の紹介や幽霊で有名な松井冬子さんの絵、の紹介。

でもそれらの絵に惹きつけられたのではない。何よりもすばらしいのは、
「死体の観察をしていたら、ある時いのちの世界に遭遇した」
という言葉に要約されていた。
「死の向こうににぎやかな生があった」ことに気がついた、という認識だ。

いわば「世界がひっくりかえる」物事の見方を発見し許容するという思考。
そして、この展覧会にとりあげられた作家たちにとっては、
自分がやらなければならないことがある、イコール絵を描くこと、
それを私たちが見る、何かを感じる、であったことでしょう。

作家にとって絵を描くことは「心をととのえること」
「芸術は世界を変えることはできない。けれど一人の心を変えることはできる」
が誰かの引用であったか布施さんの言葉であったか定かでないけれど、
私たちはその絵をみて確かに何かを感じた。そして考えた。
少なくとも否定ではなくその先に何かがあり得るかもしれない、と。

あとで知ったことだが、布施さんは今を飛ぶ引っ張りだこの学者なのでした。
そうでしょう。そこに立っただけで、ある空気を生み出して、
言葉を発すると知らぬ間に惹きつけられている自分に気がつくのです。

それにしてもこの美術展のタイトル「さびしさと向きあって」の、
素直できれいな英訳は「Facing Sadness」だと思うのですが。

「In the Face of Sadness」は、、、に直面して(それにもかかわらず)と
いうニュアンスを感じてしまう。

「静かにさびしさに対峙する作家の佇まい」
をタイトルから感じるとすると、この訳はそれからは離れてしまう気がする。
私が日本語タイトルから受けた印象と学芸の方の意図は異なるのかも
しれませんが。

N

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